昭和40年9月1日  月次祭★★  28分



 昨日の、午前中奉仕をさせて頂いておる時です。墨を、こうすらせて頂いておりましたら、どういうようなことだったでしょうか、すずりの上に小さい石があったらしいですね。その上に、墨を持っていって、力を入れましたもんですから、なんか、ジャシッと。もう、実に、嫌な音がするんです。
 で、それを私ここ、きちっと直そうかと思たら、尚余計そのなにか、こうすずりの中に傷がいくように、そのジャリジャリという音がするんですね。嫌な音なんですね。
 スッスッスーとこうすればすれるのに、なんか砂利かなんかの嫌な音がする、(墨をえたもんですから、?)ジャリッという音がしましたね。
 嫌なもう、嫌な音がするんですね。そうしたらね、私はすぐ筆を取らせて頂いて、お取次ぎをさせてもらいおって、お名前を聞かせて頂こうと思ったら、もう途端に、この手がしびりてしまいましてね。
 手に力が入らんのです。もう、鉛筆なんかやったら、おそらく書けないでしょうけれども。まぁ~筆だから、まぁ~かろうじて、そのお名前だけは書けるんですけれども。その、こう力を入れて持つ事ができんくらいに、腰元が、右の手がしびれるんですね。
 そのところとは、別に艱難(かんなん)がある、とは思なかったんですけれども。その途端に神様がね、★「それ見たか」という言葉を頂きました。それ見たか。それ見てみよと。ね。
 皆さん、お分かりになったでしょうか。信心とはね、そういうような例えば、この嫌な思い一つでもせんですむようなおかげを頂くために。それと、例えば、この肉体とが、しかも、こんなにも密接に、関係があるということを教えて下さったんですよ。
 信心しておかげを頂く、開いけない道が開けたり。治らない病気が治ったりと。有り難い。ね。その有り難いというその心におかげがあると仰るように。。
 だから、有り難くない、反対の心ではおかげ無いということになるんです。ね。例えば、嫌な音を聞いて、ジャキッという音を聞いてから、嫌だな~と、こう思った。思た途端にです、これは私の体を持って教えてくださるんですね、神様が。
 ここの中から力をぬいて下さる。ぬいてしもうて下さる、いわば、それを手が、しびれると、こう言う。
 筆がやっと持てるように、私うっかり気がつかなかったんですけれども、神様がそれ見たかと。お言葉を頂いてから、はっと気がつかせて頂いて。はぁ~なるほど、信心とは、ここだなとこう思うのでございますね。
 それですから、いつも良い音を聞いたり、良い物を食べたり、良い物を見たりね。良い話を頂いたり。そういう中にある、でなかったら、また、何も見らん、聞かんといったような、山の中にでもこもって修行でもしておるというようであったら、ただその、良いんでしょうけれども。御道の信心はそんなもんではない。ね。
 どんなに嫌なのものでも、汚いものでもね。どんな事の中にでも、信心を分からせて頂くのである。どういう中にでも有り難くならせて頂く稽古をさせて頂くのであるというところにです。信心は、難しいけれども、面白いと言うか有り難いと言うか、楽しいと言うか。もう限りが無いのです。ね。
 そして、自分の心をいつも見つめさせて頂く。自分の心の動きというものがです、もうおかげにつながっておるのですからね。
 「真に有り難いと思う心、すぐにみかげの始め」とも仰れば。「この方の道は喜びで開けた道だから、喜びでは苦労はせん」と。
 ですから、今は、いつも喜べれるようなことばっかり下されば喜んでるんですけれども。人間というものは、いつも喜びの、喜ばねばならないようなことばかりが、しばらく続けて与えておると、もうそれがマンネリになってしまう。当たり前になってしまうと。そして、それが、当たり前のように思うてしまうような心を私共が持っておるのですね。
 ですから、その良いことばっかり、いわえる、「浜のお寺の上にに座っておる」といったようなことばかりが、信心の目指しではなくてです。ね。どういうような事の中にも有り難いなぁ~、相済まんなぁ~。というような、心を私共の心の中に、いつも頂かせて頂く稽古をさせて頂くわけなんです。ね。
 細かいですね、どうでしょう。例えばあの、ブリキ屋さんの前を通っても、ガチャガチャようしよるもんですもんね。もう、嫌な音なんですよね。身がぞっとする事ある。その嫌だと思うことが、もうおかげを頂くのではなくて、反対のほうに、どこにか、引き抜いて行きよるそれを例えば、はっきり昨日私に教えて下さったんですね。
 信心は、だんだん一年一年有り難うならせて頂く稽古だとね。どうすれば、どういうような有り難いになれば。どういうような生活状態にならせて頂けば、こんなに有り難くなれれるだろうかと。
 私共が有り難くなりたい、有り難くなりたいと言うただけでは、有り難くなれない。やっぱり神様が与えて下さる。
 今朝から私が、今こげんやってせきが出るんですから。朝の御記念をいっぱい聞いておる方達に言うんです。お話しながら、せきが出たり、タンが出たりするのです。もう、嫌だな~御結界で先生がせきをしてから、もう汚いタンばなんべんも出してから。
 汚いタンと思ておられる方は汚いと思われる方はね、私とつながっていないのですよと、いうてあげな。いやあ先生おきつうありなさろうと思ておる人はね、私と通う人なんだというわけなんですね。
 私共が、なるほど完璧を目指してはおりましても、中々完璧というようなことは出来るはずがない、実を言うたら。けれども、出来ないけれどもというて、放任しとくわけにはいけないね。それを少しづつでも、進めていくというのが信心なのである。
 そこで、私共が本気でその、そういう有り難い思い方ができれる。どういうようなことを聞いても、見てもね、もうそんなら、もう聞かんばい見らんばい、言わざる、見ざる、聞かざるになれば一番良いと、こういうけれども。御道の信心はそうじゃあない。聞きもしなければならん、見もしなければならない。嫌なものから耳を塞いではならないね。
 見せて頂きながら、そこから、私の心を試してみるのである。私の心の状態を試してみるのである。
 私共の心の状態が、有り難い時に、どういうものを見ても、聞いても、それが響いてこないけれども。心の調子を穏やかではなかったりいたします時には、そう、嫌な音ではなくても、あぁやかましか。ということになるね。「もうなんともやかまし、子供ば泣かせてから。ちょっと静かにさせんか」と言うてから、家内までが怒るごとなってくる。
 ところが、その調子が良い時には、「神様おかげを頂いてから。まぁ本当に子供達が、泣いたり、いたずらをしたり、健康の印でございます」と言うてから、お礼を申し上げておるの状態の時もあるね。
 いかに、心の状態がいわえる、和賀心、平生、平生心か、ね、平生心というようなところが、頂けてこなければならんかと言う事を感じます。ね。
 神様が私共をご覧下さってありますね。「嫌なヤッチャーなぁ~」とね。「いくら教えて聞かしても分からんようじゃなぁ~」と思われてもです。ね。それはもう本当に私がせきをしたり、タンを出したりするように、汚いことでありましてもです。それは神様が、「あぁ~あの氏子はきつかろう」っち。というふうに、見てくださるような、おかげを頂きたい、ね。昨日、小倉の富永さん達が親子三人でここでお参りになる。まぁ~色々よもやま、信心のよもやま話の後でした。
 もう、この頃、特にのハイ(ハエの事)が多くなったんですね。アキバイが。それでもう、本当にハイがおってから、もううるさいと私がこうやってその仰いでおりましたら、富永さん言われる方がです。「もう先生もう小倉辺りにおるそのハイは、もう不潔でたまらんのですけれども、不思議に椛目のハイは一っつも不潔を感じません。もう、可愛いらしか」ち言う(笑)。もうこげなんとが有り難い。椛目のハイは、ハイまで可愛らしくなってくるね(笑)。したら、それは富永さんのお世辞ではないのです。そうしたら、その御理解を頂いた後に、総代さんの熊谷さんが、「先生今日の御理解を頂きおりましたら、私共もそげんに思います」昨日、一昨日だった。そこで秋永先生の奥さんとなんかお話をしてよる時にお茶が出た。もうハイがいっぱい、もう真っ黒なっちゃあった。そういう時も、本人これ、お茶たんのうそうに流し込んでしまって、「椛目んとは、いっちょん汚かちゃとは思いませんのう~」ち言うてからお茶を頂いたち言う。ね。
 言わばなんと言うんでしょうかね、アバタのえくぼに見えてくるわけなんですね。それは、椛目が好きになっていかれるからです、皆さんが、ね。神様がだから、私共を好きになって下さればです。私共はね、いわゆる不完全な私共ですから、どこに御粗末御無礼がね、あるや分からん。どんな汚いことをしておってもです。それこそ、「もうよかよかそん位の事」ちゅうごたる。かえって、それが可愛いらしかというごたるふうに神様が見て下さるようになったら、しめたもんですね。
 確かにこの神様はね、そういう情感を持って通われる神様なんですね。私、今朝から、もういよいよ今日九月の一日でございますからね。今月もまた本気で信心の稽古をさせて頂こう。どういうところに今月は一つ焦点をおかせて頂こうかと私は思わせて頂いたら、★私、御心眼にです。ウナギじゃなかった、ナマズがですね、私共を見て、こうやってその、あの長いヒゲをゆたゆたとさせながらですね、私共にこう泳いでくるところを頂くんですね。
 しかし、私今朝思うのに、御理解を頂き終わった後にですね、いかに御理解が生きた物であるか。神様のお言葉であるか。神様がそれを本当にそうだと、言うような私が夢か幻かで頂いたのではなくて、はっきり頂いたもんだということを裏付けて下さるかのように、今日あの、御祈念が終わってしもうてから、二女の愛子が出て参りましてから、今日はもう、お父さんのナマズのお知らせのお話を頂いてからびっくりしたと。私も御祈念中にナマズが出できたところやったの。

 (愛子先生の声)「牛の餌の桶の中に入っておる」 

 そのナマズがね、あの牛の、牛にあの~(だ桶?)というなんか餌をやる。(だ桶?)の中に、泳いでおるところを頂いたという。
 ある意味慎重ですね。牛の(だ桶?)の中にね。それで私が、そのナマズを見ながらです、私は感じたんです。ね。あれは、こうするとヒゲをゆたゆたとさせて来るからね。
 あのヒゲちゅうのはあれはえばるち言うこと。で、私は椛目では誰もヒゲが出てなさる人がなさいませんでしょう。私、ヒゲだけで、こうヒゲ戻さんねと言ったら。これは、家で戻してきなさいます。
 あれはあの久富先生なんかはですね、南方のや。南方のそのあちらの現地人はヒゲを立てとるとおかしかと思うらしんですね。だからもう威嚇のためにヒゲを立ててござる。だからやっぱ帰っても、こうヒゲを立てちゃあった。
 まどんどんお参りして信心が有り難うなってきたなさったけど、どうもヒゲが気にくわんとですったい。それけんもう、久富先生あんたヒゲば今日落として来なさいと、私は言うた。明くる日は綺麗に落として来とった。
 「先生このヒゲば落とす時に、家内がです。パパそれだけはやめとけというたけれども、親先生が仰ったからと言うてヒゲを落とした」ち言うて。いうようなですね、ヒゲを私はそう、剃らん人間は私は嫌なんですね。
 ヒゲがなかったっちゃですね、やっぱり立てられるところは、立てられる。ヒゲ。ところが家の女房にはヒゲがあるという、その女房にでヒゲが。えらい困ったもんですね。心にあるヒゲなんですね。寄り付かない。ね。
 だから私はこう今日はその思うてからですね。本当に、実意丁寧にいよいよならせて頂いて。こう、ふん反り返ったような威張ったような態度でも心でも、物腰でも本当に、身を低うさして頂いて。で金光様の御信心というものは、有り難いものだな~とね。
 すましかえったら、いつもニコニコとしている、ね。本当に実意丁寧におかげを頂きたいとこういう気持ちをいよいよ強うさせて頂いたね。
 もう、威張っておるとぐらいこの神様がお嫌いになることはないようですね。もうどげんよかことをしおったっちゃ、今度は反対にもあれがちっとよかごつしよるから、ちとばかりえばったから召し取ってきよってなんか違うお願いをしてこうじゃろうち思うから、喧嘩しなさることになる。ね。
 もうちとよか事しよったっちゃ今度は反対。ところが、神様に好かれると、そうじゃない。神様のお嫌いなさることをしおったっちゃ神様の方が、それこそ椛目のハエは可愛いらしかというごたるほどの見方をしてくださるようにまでなってくる。
 どこに、それがそんなに違うのか。ね。私はそのナマズから、色々分からせて頂いたことはです。ね。大きな口をしていますから、あれはいやしい心だと私は思うた。
 汚い人があります。金銭だけではありません。食べ物だけではありません。ね。もう様々ないわゆる、いやしい汚い心。金でも出さなんならもう、一緒に飲みに行きますだよね。したらそのいよいよ勘定が来るとですね。人の財布ばこうやって見ておってから。「ああ、あれが払うてから、俺だけ最後に出そう」ち言うた通りなんですよ。ね。タバコ一本くれんかっち。もう鞄に金札持っておると。もう一本もらってから、一、二本もろうたぐらいで、「もうあげんの( ? )吸うな」ち言う。そういう事になって来る。
 本当ですよ。もう、汚い人はもう実に汚い。もう、金光様の御信心をするなら、もう限りなくあの人は馬鹿んごたる美しい人じゃということにならなきゃいけない。ところが、私共の心は、その汚い、いやしい心があるから、そげなん心に取り組むのじゃ。ね。
 もうあんた達払た時待ってから、一時も手を財布の中に入れた事がのうてから出し惜しみする。 もうどうせ払えんけど三千円払うね。で最後にいくらか小銭も出来んち言われた事がある。
 汚い、そげなんとはもう、例え儲けてったっちゃですね、本当のおかげにはなってこないですね。もう儲けたけれどもいつ儲けたのか分からん。それこそ、自分の働きで得たんじゃない。人が儲けなおしてくれたというものがなかなければ、大きゅうはなれません。それを信心でいうと、神様のおかげで財産が出来たとこう言われるんですね。
 もうこのへんのところを本当に信心でお互い一つ分からにゃあいけません。今日はだから、今月は私はもういよいよ、そのまあヒゲがあるなら剃らせてもらおうと。ね。いやしい、汚い心が自分の心にはっきりしたら、本気でそれを取り組ませて頂こう。工夫が要るんですよだから。
 ある人が私お取次ぎをさせて頂いたときにですね。その、やっぱ、その何んち言うですかね。病気なんですよね。少しなんか(のろうげ?)があるち言う。「もう先生どこ、それこそもう余計なことは仕分けせん、(       ?        )」いや、それ本当に言われたんですからね。
 だから、今回のことはいっつも罪にはならんで誰も知らんとこう思とったっち言う。ところがなんです。ね、子供が小学校に行くようになってある時、先生から呼び出しがきた。行ったところがですね、そのクラスで、その、物が無くなった。あまりにも常時でてくる、不思議と思いよったらお宅のお子さんの座席の中に入とった。もう、それを聞いたとき、血の引くような思いがした。そのことを言われました。
 自分の心の中にそういうようなものがあると。それが子供に遺伝しているわけなんです。もう大変なことだというて目が覚めました。ね。
 そうしてならですね、ある人がです。あのう、易者がですね、その子をお立会いお立会いと易者がおるでしょうが。で、そのそれを聞きおったげな。そしたらですね、あなたの顔のそこにほくろのある人は(のろうげ?)があると言うた。もう、ぽっくり当ってから、その場に立っておられんごと、(昨日私は帰った?)事がありますけれども。というて私先生、神様の前を付き合い致しますけど、よそへ入ってから、その金ばとってきたとこ。そげなんことはしたことないけれども、なんとはなしに、攻撃があるわけなんです。「まぁちょいとお参りしてから、おかげ頂かないかんな~」ち言うてはっきりしたことは仰らなかったかもしれませんけどね。(笑)
 まぁもう平気で、あぁ~それは私が替わったったのにあぁ~そげなんことじゃったのと帰りよったもんですね。言うたもん別に(笑)(  ?  )
 もう本当にそういうような汚いところがですね、ところがですね、それから一年後ぐらい私忘れてしもとりましたらですね、その子供さんにそういうことがあることを聞いてから、本人がもう本気で改まったんです。
 持って帰ろうと思っておったばってん、あぁ~いかんいかんと思ってから。その持って帰らんのです。私は反対、便所に一本必ず紙無かならかえって置いてくることに昔から決めておったです。後の人が困りなさると。これはまぁ私もうそれこそ青年時代から、替えりっこしております。もうどげなん、大臭便所にに入ったっちゃです。もう中とこにゃ持っとるちり紙の半分ぐらいを置いてくることに決めております。後の人気持ちが良いんです。その気持ちが、神様があぁ~と出てくる。私は、このいわば、いうならば、この認めて下さるというようなことになってくるのではなかろうかと思う。
 置いてくるのと、持ってくるのは大変な違い。もう誰も知らんのだけれども。ところがですね、一年後にですねいつもその鏡を見ておる。ところが、一年後に、その易者が言うたその、そのほくろがなくなったちゅうんです。 
 なるほど人の人相とか、この相とか、運命のこの、いわゆる、ということがです、定まっておるものであるけれども、その運命というものも、自分の心がけ一つでは切り替えていくことが出来るということが分かるですね。
 顔にあったそのほくろがなくなったというね。もちろん、おかげを頂いてから、子供もそれ以来そういうことがなくなったという。もう、これは十年も前のお話なんですけれどもね。
 お互い信心をさせて頂くのに、そういうことはございませんのですけれどもです。厳密に自分の心の中に本気でその心になって参りますとですね、やはりいやしい心がある、汚い心もある、同時にやはり威張る心があるということなんですね。
 私は、そういうようなことにです、本気で取り組ませて頂く人の上に、神様が私は、他のことは出来んでもですね、例えば、ハイのような不潔のようなものがここにあってもです、もう、あん中におるハイは、もう本当に可愛いらしかち言うごたるになってこられるのではなかろうかと私は思うのですね。
 おかげを頂いて、今日私が皆さんに申しました、本当にもう小さい、小さいことなんです。もううっかりしたら一つも気がつかないのだけれどもね。墨をすって、ジャリッというたその音がです、嫌だなぁ~と。もう嫌だなぁ~と、その芯から嫌だなぁ~と、この身がずんとするほど、嫌だなぁ~と思うたことがです、もうそれ見たかと言うように、手が力が抜けるような、しびれるような事につながっておるような事になればです。
 いかに私共が、ね、どういう物を見ても聞いてもです、そん時にすぐにそれを「おう」と答えて、神様有り難うございます。あ痛、痛うございましたけれども、これによってと言うなんかがです、ね、そこん所に焦点を置かして頂かなければならない。私共でもそれは、もうちょっと聞くとですね、ムカッとするような事があるです。腹の立つ事があるです。
 けどもよう考えてみると、あぁ本当に神様の御都合であるお働きをもうこげな心で受けおると思うてお詫びをする。責めてお詫びをする心ぐらいは持たなければ 、おかげ、信心は立ち行きません。本当のおかげが立ち、あー、生まれてまいりません。ね。けども先程、えー、秋永委員長からその話がございました。
 「先生あなたご承知でしょうか」何ですか。今度あちらのお土地の、おー、基礎があっておりますんで、どれだけとるかその低うだけとると今度、それがその、土地の、土地がですね、一番低か所でかかっておったらしい。ほれで改めて、どれだけかがその、順にその低うする事なっておる。という訳なんですね。
 そげな愚痴をこげな事してからの。とこう私は思うた。でも、次の話を聞きよってから、こげなように思うんですね。あぁまた失敗したと思う。そういう時、さあおかげがち、いやよかですたい。ね。おかげがて言っても頂いたらいけんのがいけん、いやよかち思ってから。なんばそげな仏頂な顔してどうした事じゃろうかとこう思った。
 設計士おらんじゃったろうその時には、マサキさんもマサキさん気が付かなかったじゃろうかと、マサキさんに言うたり設計士を言うたりするような事になるんです。まあ一つ真面目になるこれが、ね、ところがそげな秋永先生の話を聞きよってから、はあやっぱ神様は見るらしいのうて言うて言うたことでした。
 それだけ低くするとですね。お土地を丁度五十万円方持って組んでおるんだそうです。ね。今は椛目は二十万円でも大切な時にですね、いわば計画としてはもう五十万円払わんならんのです。もうそう真面目にやってるともうあれだけ高いのだから、もうこげん高い所はいらんと神様が言いなさる。ね。神様が見通す、五十万円でも一つ楽させようと思てござる働きはです、設計士がどうの久富君がどうのというような事は、ほんとに神様の御都合ちいうのは恐れ入るなあと言うとりゃそれでいいのだけれどもです。
 ね、私共うかつにしとりますから、「またそげな失敗したの、また間違た」というようなものが先に出て来る。けれどもこの信心を頂いとりますからです、次のことを聞かせて頂いておると、また、考えておると、はあこれは私の言う事の方が早計であった。神様の深い御都合があるのに違いはないというふうにです、それを有り難く頂いて行くことが出来る。ね。
 もうとにかく、もう有り難く頂いて行けばおかげになる道なんですから、ね、嫌な音を聞かせて頂く時でも、耳栓をするような事をせずにその中から一つ、おかげを頂かせてもらわにゃいけません。ね。その中から私は、有り難いものを乗り換えて行かなければいけません。と言うてお道の信心はです、山の中にこもって言わば、するような信心ではない。もう実生活の中に日常生活の中に、ね、世の中の様々な難儀、苦労の中にです。信心を頂いて行こう。そしてそこから、有り難いものを頂いて行こう。
 と言うわけなのですから、ね、山でする修行よりも、うん、やはり実生活の中でそうやってさせて頂く修行の方が、言うならば難しいけれども、実際的であるという事がわかるでしょう。人間離れしなくてもいいのです。だから、山で修行さして頂いたってから、もう悟り済まして私は帰って来ると、もう他の者にゴチャゴチャ言うよう中にあると、また元の、元ん事なってしまう。また山登らならんと言ったような事じゃいけんでしょう。
 私最近、んー、まあ、信仰宗教ですね最近、そのう、まあ大変いわゆる発展してござる宗教がある。そこの人達が一月そこの教組様と言う人が山に登っらっしゃならんと、その人が助からん事になって来ると言う。ほれでもう、月に一片それがそのう、自分の心細うなって来なさったでしょう。それでもうすぐ山に登ろようになると、もう信者はすぐ有り難い有り難いと(?)着いてから、お山でお滝をかかったりなんかするらしいんですよね。
 そして、一週間ばかり修行してくださるとまた、帰ってその御ひれいが立ちだす。そういう不自由な信心ではないということ。ね。と言うて皆さんうかつにしとればです、もうそれこそ、信心のあるもんやら無いもん分からんように脱線してしまう、と言ったような難しさがあるということ。ね。
 「この方の行は、火や水の行ではない、家業の行」と仰るから、家業さえ一生懸命しときゃもう行と、その家業の行の中に椛目が申しますように、見る事聞く事様々な事の中からです、どんな音、物を聞いても聞いても、どのような事が起こっても驚かんで済む。嫌な思いをせんで済む。一切そこの中から、有り難い、勿体無いまたは、相済まん事だと言ったようなものだけが出て来るところのおかげ。
 それは、山に行って修行をさせて頂く以上の、私は発心がなからなければ出来る事ではない。ね。またそれが出来なければお道の信心の有り難い、言わば一年一年有り難うなって行くと言うような事にはなって来ない、と私は思うのですよね。どうぞ、そういう意味でです、今年、今月は特に私が、そのウナギのお知らせからね、ヒゲをゆたゆたするような事は止めましょう。自分の心の中にヒゲを感じたらすぐ、一つ安全剃りを持ってこう剃らせて頂く。
 「金光様、金光様」と剃らして頂かにゃいけません。自分の心のため、いやしい心が起こった。これが神様がお嫌いなるのだと思うて、それを改まって行き、お詫びをして行くようなおかげを頂いていかなければならんと思うのでございます。
 どうぞおかげを頂きまして有り難うございます。